東北大学は、日本で初めて女性の入学を認めた大学としてあまりにも有名です。
1913(大正2)年9月、黒田チカ(29歳、東京女子高等師範学校=現お茶の水女子大学・助教授)、牧田らく(24歳、東京女子高等師範学校・授業嘱託)、丹下ウメ(40歳、日本女子大学校=現日本女子大学・助手)の3名が、世間の注目を浴び東北帝国大学理科大学(現理学部)に入学しました。3名の年齢と経歴に注目ください。出身校は、当時の女性の最高学府です。その助教授や助手が、一学生として、この年齢で、まさに心躍らせ、女性入学許可の「門戸開放」の東北帝国大学に馳せ参じたのでした。
当時の日本の私立大学は、"正式な大学"ではありませんが、その私立大学でも女性の入学を認めていない時代です。中等教育ですら女学校の年限は4年で、男子の中等学校の5年とは差がありました。「女に学問はいらない」と女性が差別され、それが当然とされた社会状況です。その時代に、文部省の反対を押し切り、女性受け入れを企図した東北帝国大学初代総長澤柳政太郎(まさたろう)や入学を許可した第二代総長北條時敬(ときゆき)の先見性と卓見は、日本の女性の歴史を変えた画期的な大英断でした。
東京大学が女性の入学を認めたのは戦後です。まさに、「初めてを始める」東北大学らしい、先進的な快挙です。
化学を専攻した黒田チカは、後に紅花を研究、女性で二人目の理学博士となります。丹下ウメは、米国に留学しPh.D.の学位を取得。帰国後はビタミンの研究で日本初の女性農学博士となりました。二人は出身校の教授を務め、研究や後進の女性研究者の育成に活躍。両者ともその名を冠する賞が創設され、「日本のマリ・キュリー」と評されています。
数学専攻の牧田らくは、母校に戻り講師、教授を務めた後、画家金山平三と結婚。孤高の画家が芸術院会員として社会に認められる人生を支えながら、数学の外国著作文献の目録を一人でまとめてもいます。
こうしたパイオニアの活躍に憧れ、旧制東北大学には留学生を含め合計188名(東北大学史料館調査)の有為の女性が入学。東北大学は、才能豊かな女性たちの希望の星の大学となりました。理系女性の活躍の系譜は、純心女学院を創立した江角やす、物理学研究の吉田武子などが引き継ぎます。南極観測の初の女性越冬隊員が東北大学出身であったのは伝統のなせる技でしょう。文系では、日本初の女性法学士で、初の女性公正取引委員会委員の有賀美智子、日本女子大学学長青木生子など多彩に輩出しています。
東北大学は、2003(平成15)年の「21世紀COEプログラム」に、「男女共同参画社会の法と政策」が採択され、次の「グローバルCOEプログラム」にも選ばれました。「グローバル時代の男女共同参画と多文化共生」の世界的な研究拠点の形成です。研究者を志す女子学生の身近なロールモデルとなる女性大学院生を支援する東北大学発「サイエンス・エンジェル」制度も誕生、全国から注目と期待を集めています。
東北大学は、これまでも、これからも、志高き女性たちの憧れの母校でありつづけます。
氏名 | 専攻 | 入学時年齢 (満年齢) |
入学前の経歴 |
---|---|---|---|
黒田チカ | 化学 | 29歳 | 東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学)助教授 |
牧田らく | 数学 | 24歳 | 東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学)授業嘱託 |
丹下ウメ | 化学 | 40歳 | 日本女子大学校 (現日本女子大学)助手 |