ビール好きの青年が、いつか自分の手で心を満たす味わいを作ってみたいと夢見た。 その想いを絶やすことなく、ビール業界の仕事に励み、着々と力を蓄えていったのである。 折しも、日本のビール醸造に関する規制緩和とともに、地ビール・ブームが湧き起こった。 その青年、木村剛氏がどうにか、ドイツ伝統の醸造所をモデルにビール醸造所の立ち上げにこぎつけたのは2001年。 既に地ビールはブームの波が引いて低迷し、発泡酒人気が高まっていた逆風の時期であった。 とはいえ、いい原料、真面目な製法にこだわり、品質アップと味わいを深めファン層を確実に広げていった。 2015年には、外国特派員協会主催「世界に伝えたい日本のクラフトビール」のグランプリを獲得。 全国200以上もある中の頂点に立った。木村社長に、起業への経緯やご自身が求めるビールのあり方などをたずねてみた。 |
将来、何になるということも決めていなくて、まずは経済学部へ入学。学生生活は、盛岡生まれの盛岡育ちなので、仙台は都会だなという印象でスタートしました。講義は幅広かったので、興味のある分野を聴講。経済学の中でも理論というよりも、世の中の動きを捉える方に関心があったことも事実です。
例えば、ゼミは栗山規矩教授の経済統計学を選びました。データを使ってモデル分析をするのですが、何かに特化することなく時々の社会の動向や話題などをグループに分かれて取り上げ、調べて発表したりしました。当時はバブル期だったので、金融界の最新の動きや、経済を支える生産システムを勉強するなど、あれこれトライしました。
中でも、経営に関心を深めて、会社経営について齧ったりもしました。実業家、ビジネスマンに憧れがあって、世界を股にかけて活躍するのもカッコいいと思ったものです(笑)。
クラブ活動は学友会ゴルフ部へ入部。部員は30~40名と多かったです。特にゴルフの腕前を専門的に磨いていたわけでもなく、一番良かったのはゴルフ場でアルバイトできるので助かったことです。キャディとして、仙台周辺のゴルフ場をかけ持ちで巡っていました。
プロゴルフのトーナメント大会のアルバイトを頼まれる機会もあり、ジャンボ尾崎や中島常幸、青木功のプレーを目の当たりすることもありました。プロゴルファーはそれぞれ気の使いようが違っていて、見ていて面白かったです。プレー中には些細な物音にもピリピリする程、真剣勝負をしていましたね。
今、思えば、このゴルフ場でのアルバイトは、社会を見る窓でした。接するお客さまは、経営者をはじめ社会の上層部の人が多かったです。ラウンド中にそうした方々を観察していると、挨拶や会話、接待の仕方など、何かと社会勉強になったものです。
アルバイトで稼いだお金で、ゴルフ部の仲間や友人たちとよく飲みに行きましたね。結構、お酒が好きだったのです(笑)。飲むと、ふだん話せないことも会話できたり、真剣に話したり、お酒が入ることの良さもありましたね。お酒そのものにも興味を持ち、いろいろ飲み比べて、やっぱりビールがいいとなりました。輸入ビールもあれこれ飲み分けてみたりして、今に繋がっていますかね(笑)。
就職活動は、大手ビール会社などの入社試験を受けて、ビールのシェアが一番の最大手企業に入ることにしました。1990年のことです。
当時は、丁度、某企業のキレのいいビールが発売されて、画期的だと話題を集め売上げもうなぎ上りに。これに対抗して、競合企業も新商品を市場に参入させるなど、まさにビール最盛期でした。
東北支社に配属されて、当初は内勤として販促企画の仕事につきました。地域マーケティングの重要性に目を向けられた時で、販売促進の戦略や酒販店へのセールスプロモーションなどを手がけました。
その後、盛岡に岩手支店を開設することになり、開設メンバーの一人としてふるさと盛岡にリターン。岩手県内のエリア営業を担当することになりました。日夜、酒屋さんや飲食店を訪問営業したものです。
この頃、ベルギーやドイツなどヨーロッパの伝統的でバラエティ豊かな輸入ビールがたくさん入ってきました。国内ビールは各社とも比較的近い味わいでしたが、ヨーロッパにはさまざまな味があり、興味が湧きました。調べてみると、各国の地方には、村の醸造所があり、昔ながらのビールを代々作っていることを知ったのです。自分も将来、小さなビール会社を立ちあげてみたいと思いました。しかし、規制があって難しいこともわかりました。
▲100年前の銅製仕込み釜 |
ところが、1995年に規制緩和となりビール製造が解禁に。それで、全国に地ビールの製造会社が名を連ねました。岩手県にも地ビールの企業が立ち上がることになり、知人からその会社を手伝ってみてはどうかとお声をかけて頂きました。
そこで、地元のビール会社が開業した半年後の1996年に転職。希望して製造の仕事を始めました。起業するにも製造について体得しておきたかったからです。工場ではドイツから醸造職人を呼んで製造していたのですが、製造する難しさとともに、モノづくりの面白さもだんだんわかるようになりましたね。
ドイツでは、地方に行くと小さなビール醸造所がお豆腐屋さんのようにあります。ところが、大きなビール会社やショッピングセンターの台頭で、小さい所は潰れていく、そういう時代でした。潰れた醸造所の中古ながらいい設備があるとたまたま聞いて、大きな資金がなくとも起業できるのではないかと思ったのです。
退社して、仲間を募り醸造所の立ち上げ準備を始めました。2001年のことです。その頃は、日本の地ビール・ブームも下火となり、廃業する所が多くなっていました。そういう状況をつぶさに見ていて、観光とセットにした経営の弊害をはじめ問題点も自分なりに分析。それを踏まえて、ヨーロッパの昔から地元に根づいた醸造所を経営したい、味も日本のメーカーにはあまり無いクラフトビールならではの魅力を追求したいと、強く願ったものです。
2003年春に、ドイツの醸造所から譲られた100年前の設備による工場を本格稼働させて、4月にいよいよ発売。サラリーマン時代にお世話になった酒屋さんをはじめ店頭に置いて下さって、有り難かったです。夏までに製造が追いつかない程反響があったのに、秋、冬に向かうと売れない。次の年の冬も最悪でした。
それまでの地ビールのイメージは、変わった味で毎日、飲めないという印象が強かったせいもありました。ドイツビールはコクがあり味わい深く、ふだんの食卓にふさわしいタイプ。なので、狙った路線自体は間違いがない。
▲2016年5月春の工場ビール祭り「スプリングフェスト」 |
ならば、お客さまと一緒に飲んで味わいに納得して頂いて、リピーターを一人ひとり増やそうと思い立ちました。その方々が知り合いを連れてこられるし、ギフトに選んでくれる。ビールは飲んで楽しいものなので、そういう愉快な飲み会シーンを自分たちで作ろうとなりました。
まずは、毎月第2木曜に盛岡市内のお店を借りて、ビール会を開催。私たちのビールだけでなく、珍しい輸入ビールも飲んでもらいました。既に160回を数え、毎回、違うビールが飲めるので1,000種を超えました。皆勤賞の方もおられて、嬉しいですね。また、ビア・フェスティバルを私どもの工場を会場に春・秋の年2回、ビール飲み放題で開催。例えば、春の連休4日間にわたり、1日1,000人、4日間で3~4,000人のお客さまを数え、ビールの輪が広がっている手応えを感じています。
今では、ビールを通じて人と人との輪を作っていくのが私たちの仕事であると、思えるようになりました。
▲ベアレン創業時より販売している 「ベアレン・クラシック」 |
少しだけ私どものビールを紹介しますと、定番はコクと苦みのバランスがいい“クラシック”。それから口当たりがまろやかな赤褐色の“アルト”、キレがあり飲みやすい黒ビール“シュバルツ”。あとは季節毎のビールを楽しんでもらっています。春には濃厚な“マイボック”、夏は国産レモンを使った爽快な“ラードラー”(ビールのレモネード割り)、秋はコクのある“フェストビール”。それからフルーツビールの“アップルラガー”。これは、地元産りんご果汁と麦汁を合わせて発酵させたものです。
▲2015 年外国特派員協会主催 「世界に伝えたい日本のクラフトビール」グランプリ受賞 |
2015年外国特派員協会主催「世界に伝えたい日本のクラフトビール」グランプリ受賞も、推薦下さった方がおられて思いがけない栄誉を手にできたのです。この時、地元の方々が私たち以上に喜んで下さって、「自分たちのビール」だと思って頂いたことに、とても感激しました。
これからも、いい原料と真面目な製法、いい品質にこだわり、地元に長く愛されるビールを作っていきたいと考えています。将来はホップ栽培も地元でできたら嬉しいなと考えています。
「あの村のあの醸造所」というように地元に深く根づいて、ビールを通して地元に暮らす楽しみを提供していきたいのです。お祖父ちゃんが愛していたビールを孫の私も飲んでいる。そんな風に代々、飲み継がれていくビールにもなってほしいと願っています。
東北大学の皆さんに願っていることは、もう少し企業家が増えてほしいことです。同窓生の皆さんが交流を深める機会がもっとあれば、異業種交流にもなります。これまでは共同開発など技術交流が多かったでしょうが、さらに起業への希望者に経営、販促、法律などそれぞれの分野から、アドバイスやサポートする協力の輪も広がってほしい。そういう動きに期待したいところです。
1968 年岩手県盛岡市生まれ。1990 年東北大学経済学部卒業後、キリンビール株式会社へ入社。1996年株式会社銀河高原ビールへ転職。3 年半後、同社を退社し、2001 年にベアレン醸造所を立ち上げる。品質アップと規模の拡大を成し遂げ、地域経済の発展にも大きく寄与。 被災地支援のため、チャリティビール発売やチャリティイベントを開催、約 130 万円を寄付。2015年4月、 外国特派員協会主催「世界に伝えたい日本のクラフトビール」グランプリを獲得。