「反哲学の旗手」の哲学者。ハイデガー研究から日本人の哲学を探る。
木田元には、こんな書名の著書があります。『闇屋になりそこねた哲学者』(以下、『闇屋』と略)。
読みたくなってくるタイトルではありませんか。哲学者と聞くと、気難しく、孤高の青白きインテリと敬遠されがち。ところが、ハイデガー研究の第一人者である木田が、なぜ多くの読者を獲得し、その人格まで愛され、社会に影響を与え、人気を集めたのか。秘密の一端が、書名からも少し覗けそうな気がします。
『闇屋』には、東北大学や仙台に暮らした若き日々のエピソードも詳しく語られています。知的武勇伝も盛りだくさん。しかも哲学の扉を叩くための、真率な指南書です。特に学生の皆さんにはぜひ薦めたい、痛快な、自伝のような本。読むと読まないとでは、若者の将来の人生が変わってしまう本かもしれません。
《 …人に哲学をすすめることなど、麻薬をすすめるに等しいふるまいだと思っています。(省略)「子どものための哲学」なんてとんでもない話です。無垢な子どもに、わざわざ哲学の存在を教える必要はありません。哲学なんかと関係のない健康な人生がいいですね。 》
著書『反哲学入門』(新潮社)の一節です。さて、困りました。木田の『闇屋』を薦めながら、哲学者本人が哲学の持つ“毒”を指摘。健やかな人が哲学にのめりこむ危うさへの忠告です。しかし、この態度こそ、哲学者木田が、どれほど率直で、信頼できる人間であるかを証明してはいないでしょうか。
《 哲学は、現実に対して幾何学で補助線の役割を果たしていることになりそうだ。それ自体にはあまり現実性がないが、それが引かれることによって現実のこれまで見えていた構造が薄れ、隠れていた構造が表立ってくるからだ。 》
木田の言葉にそって、筆者も、意外に気づかれていない補助線を引き、木田の内面を探ってみます。
補助線とは敗戦時の1945年(昭和20)に海軍兵学校(以下、海兵と略)に“在籍”していた事実です。
筆者は、戦後生まれですが、敗戦時に海兵に在籍していた複数の方に深い指導をいただく幸運を得ました。当時の海兵とは、旧制高校よりも人気がある、日本の最優秀層の若者の集まりです。人並み優れた知力、体力、気力の三拍子がそろい、家族や係累に問題がないかを調べられた上で入学が認められた存在。短剣を吊るした制服姿のりりしい彼らたちが、少女たちの憧れの的であったのは当然でしょう。
実は、敗戦時には、通常よりはるかに多い数の生徒たちが集められ、在籍していました。表向きには、戦時の仕官を多数養成する必要性からです。しかし、筆者の接した当事者たちの受け止め方は違います。最後の海軍大将といわれる井上成美海兵校長(仙台出身)が、すでに覚悟していた敗戦の後の日本を担うべき優秀な若者を戦争で失わないため、できるだけ多く海兵で温存し、最高の教育を施すために定員を大幅に増やして望みを託した。そのために、自分たちは生き延びることができた。彼らは揃ってこう感謝していました。それぞれの分野で活躍しながらも、社会のお役に立つことを、人知れず率先し、実行する。生かされた者としての、こんな強い使命感さえ感じられたものです。
木田は、もっとも歳若い海兵の生徒でした。井上校長の託した本意をどれだけ知っていたかは不明です。しかし、ある著書で、海軍兵学校の年数分だけ、大戦中の自分の寿命は延びた、との思いを吐露しています。
中央大学の教員になってから、木田は、原典のテキスト研究の自主的な読書会を週一回、年中無休で三十年以上も続けました。大学を辞めた後も続けます。たいへんな負担のはずです。もちろん無償の行為です。この行動にも、日本の戦後を託された、との思いがどこかにあったからなのではないでしょうか。
海兵在籍半年で日本は終戦を迎えました。満州から入学した木田。孤独の身で敗戦後の日本の本土に放り出されます。ある教官の温情で、佐賀にある教官の実家にまずは身を寄せ、その後、東京に向かいました。戦災で焼け野が原になっていた首都。知人の行方は分かりません。上野の地下道で野宿を続けます。すると、屈強な木田は、池袋のテキ屋の親分にスカウトされ、いろいろ危ない仕事を手伝わされます。しかし、当時は貴重な米の飯を食べさせてくれます。おかげで人心地がついたのでした。その後、父の縁戚先が分かり、山形県の新庄市へ。父の従妹の嫁ぎ先に世話になります。そのうちに、満州からの引き揚げが始まりました。父はシベリアに抑留。母の郷里の鶴岡市に母と姉二人、弟の四人家族が帰国し、合流します。途端に、家族の日々の食べ物の確保から生活のすべてが木田の働きにかかってきました。母は腸チフス、高級官僚のお嬢様育ちの姉たちは働いたことなどありません。木田は粗悪な石鹸をもっては農家を一軒一軒回り、米と交換してもらいました。そのうちに、市の臨時職員や代用教員の職を得ます。といっても、その給料では家族たちが食べてはいけません。週末になると満員の夜行列車で東京へ闇米を運ぶ闇屋稼業もはじめ、何とか日々を生きていくつらい生活でした。
そのうちに、統制経済の裏をかく商品販売に成功し大金を得ます。代用教員の月給の一年分以上です。そんなおり、鶴岡市に県立の農林専門学校(現在の山形大学農学部)ができることになりました。希望のない日々の生活に疲れ果てた木田。いまの境遇から逃れる気持ちで、農林専門学校を受験し、入学します。
テキ屋も闇屋も体験している木田です。学生となった解放感もあったのでしょう。木田自身の表現を借りると、やりたい放題の生活で、すっかり札付きの不良学生とみなされてしまいました。
その一方では、優秀な理解のある先生や蔵いっぱいに本が揃った名家の跡継ぎのよき友にも恵まれ、堰を切ったように読書に熱中します。生涯でこれほど多くの本を読んだ時期はないと述懐するほどでした。
この時期に出会って病みつきになったのがドストエフスキーです。『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』の主人公はみな二十代の半ば。みんな絶望しています。才能はあるが、何をしてよいかわからずに悪にはしる。木田自身に引き寄せて共感していたのでしょうか。そのうち、ドストエフスキー論にはまり、ついにはキルケゴールの哲学書『死に至る病』を、小説の主人公の心理と絶望理解の教科書として読むほどになりました。そして、永遠の研究テーマとなるハイデガーの存在に出会うのです。
≪ ハイデガーというドイツの哲学者が、ドストエフスキーとキルケゴールの影響を受けながら、絶望できる人間の存在構造を時間という視点から分析してみせているらしい。それが『存在と時間』という本だということを知りました ≫
木田は、さっそくその翻訳本を買ってきました。が、さっぱり内容が分かりません。
《 これは、哲学書を読む専門的な訓練を受けなければダメらしい… 》
それで、旧制の東北大学文学部哲学科を受験しようとの目的が生まれたのでした。満州国の人事院の院長のような立場であった父もシベリア抑留から帰国。家族扶養の責任からは解放されてもいました。
いよいよ、木田の勉強の時期が始まります。
木田は、それまでのブランクを埋めるように猛烈に受験勉強をし、東北大学に合格。首席での入学です。
それからが、木田のがむしゃらな、しかし勉強が楽しくて仕方がない毎日が始まります。旧制高校出身者はドイツ語を習って入学しています。海兵出身の木田は英語しかできません。入学早々からドイツ語の原書による講義が始まりました。とにかく単語を毎日繰り返しで覚えていきます。毎日やって5日続ければ一つの単語は覚えられます。目標は、3ヶ月で一つの外国語の習得。一日8時間を語学の習得に充てました。1年目はドイツ語、2年目はギリシャ語、3年目はラテン語、大学院1年目にフランス語。そのほかに大学での演習の準備がありますから、一日十五、六時間は勉強をしたとのこと。ハイデガーを理解するためには、哲学の歴史上の主要著書を原書で読み、理解しなければ、との明確な目標があったからできたのでしょうか。
《 … (テキストを)こっち(東北大学)は一語一語きちんと読み分けていく。それはとても大切なことです。接続詞や小さな副詞まできちんと読めなければ意味を正確につかむことはできません。……東北大学で教えられた本の正確な読み方は貴重な財産になりました。 》
後に中央大学の教員になった木田は、他の大学出身の同僚から挑まれたラテン語の原典の読書会で、大意さえ分かればよいとの読み方のいい加減さにあきれる思いをします。その同僚は、木田の厳格なテキスト解釈に音を上げ、『もうやめよう』と降参してしまいました。敬愛する哲学者の友人から、『木田は、分からないことを分かったふりをしないから、偉い』とほめられたそうですが、その意味がよく分かる気がします。
《 普通の人間は、ちゃんと考えて書かれたテキストを一行一行読みながら、著者の思考を追思考することによってしか、思考力の養成はできそうにありません。 》
なにもないところから突然に考えがわいてくるはずがないのです。
話が進みすぎました。木田は、入学から、学部、大学院5年、そして助手・講師として2年、合計10年間を東北大学で勉強を続けます。ハイデガーの哲学が分かりたい。東北大学出身者らしい、愚直なほどのこの必死の思いが、いつしか哲学者への道を拓き、中央大学の哲学専任講師に迎えられます。
ところが、木田はまだまだハイデガーを分かった気にはなれません。ハイデガーは、フライブルク大学の一哲学講師としての講義の評判だけで、ヨーロッパ中から受講者が殺到したという伝説の持ち主。その最初の著書『存在と時間』のわずか一冊で、すでに二十世紀最大の哲学者としての評価を受けます。難解極まりない哲学書でした。しかもハイデガー自身がその本で論及されるべき全体構想の瑕疵に途中で気づき、構想の一部分だけを取り上げ、まずは刊行したという複雑怪奇さ。分かるはずがありません。ところが、この著書一冊の存在で、これまでの哲学の概念そのものを見直そうとする超哲学ともいえる、すばらしい著作であるとの大いなる予感を与え、世界の哲学者を震撼させます。まさに天才の登場です。
東北大学入学以来のハイデガーの研究を五十年。木田の最終的な理解を紹介しましょう。
《 ハイデガーは西洋哲学史を根本から見直し、西洋の文化形成を総体として批判しようとしているらしいのだ。(略)プラトン以降の西洋哲学の不自然な自然観を批判し、それを基礎にしておこなわれてきた西洋の文化形成を批判する。彼が企てているのは、いわば<哲学批判>であり<反哲学>なのである。 》
となれば、これまでの哲学とは、西洋のための哲学と限定されるのでは…。ハイデガーが、ソクラテスやプラトンより前のギリシャの哲学者が考えていた自然観、「すべてのものは生きておのずから生成するものだ」に<反哲学>のヒントを得たのは、日本人にはとても共感できる着眼点ではないか。木田の主張です。
《……この立場(反哲学)でなら、(日本人も)欧米の思想家たちと同じ土俵でものを考えることができそうに思える…… 》
「反哲学」の木田は、こうして日本人の哲学を思考し、ふつうの日本語で語りかけ始めました。わからないことは書かない木田が、物事の本質を把握し、分かったことは、ずばりずばりと端的に表現します。
木田のおかげもあるのでしょうか。昔に比べ、いま、哲学は私たちの身近に感じられてきています。
木田は、人間的な魅力にもあふれていました。酒はもちろんカラオケ大好き。酒席の場は笑いにあふれます。モーツアルトを愛し、歌手ちあきなおみの大ファン。読書は、昔の講談本から推理小説、伝奇小説、江戸期の俳論まで縦横無尽。読書が楽しくて仕方がありません。朝日新聞や読売新聞などの書評委員は、まさに適役でした。
最近、「理系の東北大学」といわれることが多くなりました。しかし、かつての法文学部時代を含め、「文系に東北大学山脈あり」と評された輝かしい伝統と歴史がある東北大学です。
木田が、母校東北大学の教授として講義をしていたならば、どんなにワクワクしたことか。
東北大学の文系も「Genn Kida(元気だ)」と、いまは亡き木田も期待していることでしょう。
1928年(昭和3)生まれの山形県出身。3歳で、満州国の官吏となった父と満州国(現中国東北部)長春市(のち満州国の首都新京特別区)に移住。1945年(昭和20)、広島県江田島の海軍兵学校入学。広島の原爆投下を目撃。8月の敗戦後、17歳で佐賀、東京を転々、上野の地下道にも野宿。テキ屋の親分に見込まれ、その手伝いで糊口をしのぐ。その後に山形県新庄市の遠縁の家へ。満州から引き揚げてきた家族と母方の郷里の鶴岡市に移る。代用教員、鶴岡市の臨時職員、闇屋と綱渡りの人生で家族を養う。闇屋で手にした大金を頼りに、山形県立農林専門学校に入学。父のシベリア抑留からの帰国後、読書に耽溺。ハイデカーの主著『存在と時間』と邂逅。青年木田の抱える“絶望”を読み解き、解放してくれる運命の書と直観。深く学ぶには専門的な学問が必要と旧制最後の東北大学文学部哲学科を受験し合格。特別研究生に選ばれ奨学金で博士課程まで修了。2年間の助手、講師を経て中央大学の専任講師に転出。テキストの一語一語をゆるがせにしない東北大学で身に着けた真摯な研究でハイデガーやその周囲の哲学者の思想に肉薄。メルロ=ポンティの翻訳書で一躍注目。分かりやすい日本語で書かれ、日本の哲学書の翻訳を一変させた。哲学の著書も、本質をずばりと俯瞰、わかりやすい文章と評判。日本人の哲学を考え求めつづけた、反哲学、反アカデミズムの旗手。中央大学名誉教授。2014年(平成26)没。享年85歳。
主な参考資料
▽『反哲学入門』 木田 元著 (新潮文庫) 新潮社 2010年 ▽『哲学散歩』 木田 元著 文藝春秋 2014年 ▽『木田元の最終講義』 木田 元著 (角川ソフィア文庫)角川書店 2008年 ▽『闇屋になりそこねた哲学者』 木田 元著 晶文社 2003年 ▽『木田元 軽妙洒脱な反哲学』 (KAWADE 道の手帖) 河出書房新社 2014年 ▽『反哲学史』 木田 元著 (講談社学術文庫) 講談社 2000年 ▽『現象学』 木田 元著 (岩波新書青版) 岩波書店 1970年 ▽『ピアノを弾くニーチェ』 木田 元著 新書館 2009年 ▽『ハイデガー』 木田 元著 (20世紀思想家文庫4) 岩波書店 1983年 ▽『わたしの哲学入門』 木田 元著 (講談社学術文庫) 講談社 2014年 ▽『哲学の余白』 木田 元著 新書館 2000年 ▽『なにもかも小林秀雄に教わった』 木田 元著 (文春新書) 文藝春秋 2008年 ▽『哲学は人生の役に立つのか』 木田 元著 (PHP新書) PHP研究所 2008年 ▽『マッハとニーチェ 世紀転換思想史』 木田 元著 新書館 2002年 ▽『対訳 技術の正体』 木田 元著/マイケル・エメリック訳 デコ 2013年