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東北大学ひと語録

                    

ヴェーバーが説いた「日々の要求」とは、
「私にとっては、大学での勉強をはじめよ、ということであった」

カール・レーヴィット
カール・レーヴィット

東北帝国大学で、哲学とドイツ文学を講義した亡命ユダヤ人の著名思想家


仙台に暮らした歴史に残る西欧の思想家

カール・レーヴィットとは、いかなる人物なのでしょうか。

東北大学の卒業生で、現代の日本を代表する哲学者の一人木田元の著書『ピアノを弾くニーチェ』(新書館)の一節から、端的な評価を紹介しましょう。

≪多少なりとも歴史に名前の残りそうな欧米の思想家で、日本で暮らしたことのある人と言えば、レーヴィットくらいしか思い当たらない。≫

戦前の東北帝国大学の法文学部で外国人教師として哲学とドイツ文学の講座を担当したレーヴィット。彼は一生涯畏敬した人物として、ミュンヒェン大学の学生時代に講演を実際に聴いた二人の名を挙げています。マクス・ヴェーバーとアルバート・シュヴァイツァーです。

そのマクス・ヴェーバーは、講演録『職業としての学問』(中山元訳「職業としての政治 職業としての学問」 日経BP社)の中で、何度も同じ趣旨を語りかけます。

≪学問的に[達成された]仕事というものは、新たな[問い]を提起するものであって、[その問いに答える後の仕事によって][凌駕され]ることを、時代遅れになることを、望んでいるものなのです。≫

社会科学研究の巨星の、なんと謙虚で凛とした学問観でしょうか。さらには、社会体制のお先棒を担ぎ、大学の教壇に立ち学生を惑わす偽預言者のようにふるまう学者たちへの嫌悪を吐露、次のように講演を締めくくるのでした。

≪わたくしたちはみずからの仕事に赴き、人間としても、職業としても、「日々求められていることを」にしたがう必要があるのです。≫

歴史的なこの講演を実際にその場で聴いて感動した大学生レーヴィット。標記の言葉の覚悟を語り、少年時代からの夢、哲学者への学究の道を目指すのでした。


レーヴィットの人物像とその著書等の紹介については、東北大学文学研究科・文学部刊行のブックレット『考えるということ 第6巻』の、「東北大学文学部の歴代研究者メモリアル⑥」をどうぞ参照ください。これほど丁寧に、明快にまとめられたレーヴィットの概説紹介と資料目録はちょっと見当たりません。“考える東北大学”にふさわしい貴重な労作です。

さらに詳しくは、レーヴィットの教授資格請求論文『共に在る人間の役割における個人 倫理学的諸問題の人間学的基礎づけのために』の標題を変えて紹介する『共同存在の現象学』(岩波書店 岩波文庫)の翻訳者である熊野純彦による巻末の「解説文」が白眉でしょう。

そこで筆者は、レーヴィットが東北大学にもたらしたもの、今後の東北大学や学生にレーヴィット招請の何が参考になるのか。この観点に絞って、以下に探ってみることにします。


ニーチェ、ハイデガー紹介と研究の日本の先駆者

筆者が東北大学に入学した当時、ニーチェの思想の紹介のおもな著作はドイツ文学者の柴田治三郎教授をはじめ東北大学関係者によるものが目立っていました。筆者にとって、西欧の著名な哲学書の翻訳で初めて腑に落ちた気がした著書が『悲劇の誕生』を契機とするニーチェの著作。ニーチェ研究の中心に東北大学が位置する幸運を喜んだものです。

レーヴィットが東北帝国大学法文学部に五年間在籍、その果実としてのニーチェ研究隆盛の賜物であることを当時は全く知りませんでした。


もちろん、戦前においてニーチェの思想は、日本の哲学界でも注目を集めていました。そこに、ドイツのフライブルク大学で学位請求論文としてニーチェ研究を行ったレーヴィットが東北帝国大学の教師として来日したのです。しかも、レーヴィットは、二十世紀最大の哲学者ともいわれるハイデガーの最初の弟子として期待された人物。ハイデガーの自宅に親しく出入りし、子守りまでした仲でした。「現象学派」の指導者フッサールの謦咳にも接した俊英です。東北帝国大学がニーチェやハイデガー研究の中心的存在となる契機が生まれます。

レーヴィットの東北帝国大学での哲学講義「ヘーゲルからニーチェまで」は、1937年(昭和13)の5月から始まり、翌年まで続けられます。

この講義原稿をもとに、『ヘーゲルからニーチェへ』が出版。レーヴィットの主著とみなされる秀作に結実します。亡命ユダヤ系ドイツ人として極東のみちのく仙台、東北帝国大学で過ごした5年間は、流浪の生活とはいえ、ドイツの通貨マルクに対し当初の円高もあってレーヴィットには経済的にもまずは落ち着いた暮らしでした。まとまって思索、執筆する余裕と時間をもたらします。レーヴィットは、現代に続く日本の“ニーチェ人気”に、東北大学での講義と研究を通し多大な貢献をしたのです。


亡命ユダヤ人レーヴィット招請の学風が、東北大学「法文学部」の黄金時代を

東北大学は、よく“理系の大学”として語られます。こうした理解は、あまりにも皮相的ではないでしょうか。東北帝国大学時代の法文学部には、日本最高峰の大家と新たな学問領域を切り拓く野心的な新進気鋭が続々と参集。後には、その学者たちの中から文化勲章の受章者をつぎつぎに輩出します。憧れの知性の拠点であり、日本の人文・社会科学の学問的な中心ともいえる存在だったのです。

その拠って立つところは「門戸開放」の精神でした。ナチス政権下においてユダヤ人の追放と“淘汰”さえ国策としたドイツと同盟を結んだ日本です。レーヴィットを招くことには、文部省から撤回の勧告が内々になされるほどでした。その事情は、『ナチズムと私の生活 仙台からの告発』(秋間実訳 法政大学出版局)で次のように明かされています。

≪わたしは、一九三六年六月、日本から一通の電報を受け取って、自分が仙台の〔東北帝国〕大学へ招聘されたことを知った。この招聘を斡旋してくれたのは、九鬼教授であった。あとで聞いたところでは、〔東京〕のドイツ公使館とドイツ文化研究所がわたしの招聘を人種政策上の理由で阻止しようと努めたけれども、その目標を達成しなかったのだそうである。≫

九鬼教授とは、異色の哲学書『いきの構造』で知られる九鬼周造京都帝国大学教授です。


附属図書館及び法文学部1号館

文部省の反対を押し切ったといえば、日本初の女性大学生を受入れたのも東北帝国大学です。権力中枢のお膝元の東京の大学なら、そもそも亡命ユダヤ人学者を教師として迎えようとする、時代風潮に逆らう発想自体が生まれなかったことでしょう。時勢や権力におもねることなく、学問の前には能力以外には差別しない見識と気概。建学以来の学風と伝統が、はるかヨーロッパからの亡命ユダヤ人レーヴィットの来仙を可能にしたのでした。

当時の法文学部長は、戦後に文化勲章を受章する石原謙。国粋主義全盛の時代にあってキリスト教神学の泰斗を学部長に選ぶこと自体が、自由な東北大学の学風を雄弁に物語るものです。さらには、旧帝国大学で初めての哲学者の総長(高橋里美 第9代)の誕生も東北大学です。宗教学者の石津照璽も第11代総長に選出されています。東北大学は、法文学部創立当時の思い切った先見の明と学問創造の意欲にならい、今後の文系学部の発展に再度挑戦すべき時機ではないでしょうか。


さて、レーヴィットの『ナチズムと私の生活』は仙台で書かれたものです。ナチス政権下での亡命者によるドイツ生活の経験報告を求めたハーヴァード大学の懸賞募集に応募した原稿でした。そのためか、仙台への言及は少なく、まさにナチズムへの告発の手記です。師であるハイデガーをはじめドイツ人のナチズム受容と保身を鋭く観察、記録しています。中でもレーヴィットに恥辱を与えたのは、知人や友人の「第一次大戦の前線で戦ったユダヤ人は職場追放の例外扱いになる」との「前線条項」を持ち出しての慰めでした。実際には、青年レーヴィットの「全くのドイツ人」としての英雄的な軍歴は顧慮されることなく追放されてしまいます。

レーヴィットは、この慰めが示す、ユダヤ人なら財産を没収され、追放されることが自明のことと考える己の意識に思いが至らない無神経さと欺瞞に我慢がならなかったのです。ナチス政権下でフライブルク大学総長の地位を得たハイデガーとは、当然ながら疎遠となります。

真珠湾攻撃の半年前に米国に移住したレーヴィットは、1952年(昭和27)、祖国ドイツにハイデルベルク大学教授として帰国します。76歳となった1973年(昭和48)、戦傷で片肺の機能を失う病苦を抱え、各国での亡命生活おくったその波乱の人生の幕を閉じたのでした。


最後に、レーヴィットの標記の言葉にならい、問いたいことがあります。

あなたにとって、ヴェーバーが説いた「日々の要求」とは、はたして何なのでしょうか。


1897年(明治29)、ドイツ生まれ。ユダヤ系画家の裕福な家に育つ。少年時代を「全くのドイツ人」として育ち、ニーチェの哲学に憧れ、「危険をおかして生きる」思想に共鳴。18歳で第一次大戦に志願出征、勲章も得る。戦闘で肺を撃たれ瀕死の重傷、イタリア軍の捕虜に。敗戦後に学業に戻る。ミュンヒェン大学からフライブルク大学に移り、ニーチェ論文で学位取得。二十世紀を代表する哲学者ハイデガーに師事。教授資格請求論文を提出し私講師として講義。1933年(昭和8)にナチス政権誕生。“ユダヤ人”を理由に教職を追われイタリアに亡命、さらに東北帝国大学に。哲学とドイツ文学講座の教師として仙台で1936年(昭和11)から1941年(昭和16)まで暮らし主著『ヘーゲルからニーチェへ』執筆。1941年に米国移住。1952年(昭和27)、ドイツに帰国。1973年(昭和48)没。


文中敬称略、ルビ・カッコ内補注筆者。お子様などご家族にもお見せいただければ幸いです。
当シリーズへの、ご意見、ご要望をお待ちいたします。

主な参考資料
▽『ナチズムと私の生活 仙台からの告発』 カール・レーヴィット著 秋間実訳 法政大学出版局 1991年(第2刷) ▽『共同存在の現象学』 カール・レーヴィット著 熊野純彦訳 岩波文庫 岩波書店 2008年 ▽『ヘーゲルからニーチェへ』 カール・レーヴィット著 柴田治三郎訳 岩波現代叢書 岩波書店 1952年 ▽『考えるということ』 東北大学文学研究科・文学部ブックレット 第6巻「東北大学文学部の歴代研究者メモリアル⑥ カール・レーヴィット」 2011年 ▽『日本哲学小史』 熊野純彦編著 中公新書 中央公論新社 2009年 ▽『続 学問の曲り角』 河野輿一著 岩波書店 1986年 ▽『東北大学法文学部略史』 東北大学法文学部略史編纂委員会 1953年 ▽『ピアノを弾くニーチェ』 木田元著 新書館 2009年 ▽『職業としての政治 職業としての学問』 マックス・ウェーバー著 中山元訳 日経BP社 2009年▽『理想 487号「カール・レーヴィット先生」中川秀恭著』 理想社 1973年 ▽『文化 36巻 第1・2号 「柴田治三郎先生の学風」中村志朗著』 東北大学文学会 1972年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学 ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年





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