前列のテーブルには、「旭日大綬章」の栄誉にかがやく藤田宙靖東北大学名誉教授。祝意を述べる東北大学法学部の同窓生がつぎつぎに訪れていました。2011年(平成23)の法学部同窓会宮城支部総会でのことです。同窓生の大先輩から卒業したばかりの若者まで、誰にも丁寧に返礼をし、親しく言葉を交わす藤田の律儀な姿。大いなる喜びを持って嬉しく拝見しながらも、筆者の思いは初めて藤田に出会ったはるか昔に戻るのでした。
確か法学部2年のときです。週に何回か、当時法学部があった片平キャンパスで憲法などの基本法の受講が始まりました。1週間に数日とはいえ、川内の教養部から離れ、ようやく法学部生となった実感が生まれたためでしょうか。大講義室を始め、四つの建物で四角に囲まれた中庭の芝生で二十歳前後の私たちははしゃぎがちに談笑していました。すると、芝生と通路を隔てる鉄製パイプの囲い枠に腰を下ろし、身体を乗り出すように両掌で支えながら、私たちを興味津々の様子で眺める青年に気づいたのです。厚い胸幅に白いポロシャツ、角刈りに近い短い髪。いかにもスポーツマンといったタイプです。すこし年上の若者でした。上級生か大学院生か。こう思いましたが、なぜか気になります。筆者もさりげなく様子をうかがい、その精悍な表情と太目の黒縁の眼鏡の奥の好奇心に満ちたまなざしが印象に残ったものです。
それから数ヶ月後、あの若者が藤田宙靖助教授であると知りました。なんと26歳で赴任してきたばかり。上級生と間違えるはずです。行政法担当の柳瀬良幹(やなせよしもと)教授の後任予定者として東京大学から着任したのでした。行政法の第一人者柳瀬は定年が近く、その後継者に選ばれた俊英です。柳瀬は、透徹した論理性を希求する独自の行政法学の学風で知られ、古武士の風格を持った風貌や雰囲気。若々しい藤田宙靖は好対照の存在でした。
ここで、当時の法学部の学者育成の王道を紹介しましょう。各教授が後継候補者として狙いをつけた学部生を卒業と同時に「助手」という教官にします。現在の研究職の助教のことです。つまり教官としての安定した身分と収入を得させながら存分に研究に精励させる、という制度です。徒弟制度に近いという批判もありました。現在では理解しづらいことになりましたが、すこし前の法学部の大家、重鎮といわれる先生方には「学部卒」が断然多かったのはこんな理由からです。22歳で助手となった藤田がいかに優秀で、見込まれていたかが分かります。
期待にたがわず、その後の藤田は行政法学の第一人者となり、東北大学法学部の看板教授の一人となります。しかも、「藤田行政法学」と呼ばれる新しい境地を開拓し続けました。それが果たしてどういうものか。名著と定評の著書『行政法入門[第五版]』(有斐閣刊)を読むと、筆者のような法律学になじめなかった元法学部生にもなんとなく理解できる気がします。
まずは、「です、ます」調で記述された行政法の学術書であることに驚かされます。いかに入門書とはいえ、各大学の法学部や法科大学院で参考書として定評ある学術書です。「である」調と比べ、「です、ます」調で執筆する法学書の難しさは格別でしょう。しかも、文章力にも格段の実力が求められます。文章がゆるみがちになり、学術書としては散漫、かつ要点の記述が回りくどくなりがちです。ところが藤田は、法学の中でもとりわけ無味乾燥で取りつきにくいと評される行政法の入門書を、初学者にとってエッセイのように読みやすく、分かりやすく書いてみたいとの、大胆かつ意欲的な試みにひそかに挑戦しているかのように感じるほどでした。そして、その隠れた試みは、見事に成功しています。このことは、どれほど深い専門的な学識と明晰な論理力、高い志と卓越した文章力がないと実現しないか。筆者にも容易に理解できます。法学教育への並々ならぬ熱意と関心、さらには危機感がなければ、学者としてこの種の危うい試みに挑戦することはないはずです。藤田は、「まえがき」で思いの一端を吐露しています。
≪この本で私は、私が学生のころにこんなふうな話を聴いていたのだったならば、はじめからもっと行政法をおもしろいと思ったかもしれないな、といえるような本を書きたい…≫
藤田でさえ、学生時代には、行政法は、もっともつまらない分野のひとつとしか思えなかったのでした。にもかかわらず、行政法の専門家になったのには、行政法をおもしろいと思ったことがあったはず。そのような考えに至った行政法のおおよそと根本をなす基礎を理解し、おもしろく思ってもらえる本にしたい、との動機から執筆したのでした。
では、「藤田行政法学」の本領とはどういうことなのでしょうか。これを考えるには、藤田が文字通りの大家でありながらなぜ「異色」の行政法学者と呼ばれるのかを探ることが近道でしょう。藤田は、実定法解釈嫌いを公言している行政法学者です。「法解釈学」をもって学問としている多くの行政法学者とは毛色の違った学者でしょう。これには、藤田の研究者人生を長年支え続けてきた信念がありました。
≪学問の真髄は「何故か」を問い続けるところにある。≫
藤田のこの考えにのっとれば、学問とはさまざまな知的営みの対象は違っても「何故か」を問う点においてはいずれも共通するものを持っています。だからこそ、いろいろの領域で「学問」が成り立ち、総合大学というものの設立も可能になるのである、と藤田は若い時代から考えていました。
こうした学問観があって、藤田の実定法を越えた、よりスケールの大きな視野を得られるきっかけを与えてきた行政法学者としての業績が生まれたのです。この研究姿勢が高く評価されたことが、実定法の最高の専門実務家である最高裁当局が、「法解釈学」をもっぱらとする実定法学者ではない藤田を、最高裁判所の学者判事として強く招請した大きな理由ではないでしょうか。2002年(平成14)から七年半を藤田は「椅子の冷める暇の無い忙しさ」の最高裁判所判事を務め、判例委員会委員長、最高裁判所長官代行の重責も担いました。同時に皇室会議議員も拝命しています。
藤田の業績には、行政改革会議の学者委員としての活躍も見逃せません。内閣機能の強化・中央省庁の再編について、特に理論面から多大な影響を与えました。また、国立大学の法人化の動向について、いち早く警鐘を鳴らし、関係者に早急な検討を求めた関連論文等が大きな注目を集めたことでも有名です。最近ようやく、大学充実の国家的な重要性が広く認識されつつあるのは、遅ればせながらも歓迎すべきでしょう。
最後に、藤田の著書『最高裁回想録 学者判事の七年半 [第2刷] 』(有斐閣)の「あとがき」の一文を紹介します。
≪七年半を共に歩んでくれた妻紀子への、限りない感謝と共に、仙台にて。≫
奥様は、筆者の一学年上の法学部生憧れのマドンナでした。才色兼備、かつて仙台オンブズマンの副代表を務めた著名な弁護士です。息女たちも弁護士や法曹関係者。まさに法曹一家です。
著名教授が退職後に仙台から東京に住まいを移す事例が目立つ昨今です。藤田が、最高裁判事を退官後に「学都仙台」に戻り、暮らしている。このことがどれほど仙台の都市としての魅力を底光りさせることか。仙台市は、都市戦略として京都市の「イメリタス・クラブ(名誉教授倶楽部)」をさらに工夫した組織の創設を早急に実現すべき時期ではないでしょうか。なぜなら、「知」こそが都市の最高の力なのです。
1940年(昭和15)東京生まれ。東京大学法学部卒業と同時に同学部助手。1966年(昭和41)に26歳で東北大学法学部助教授として着任。教授、法学部長を歴任、現在は東北大学名誉教授。行政法学の泰斗であり、実定行政法や技術的な法解釈論から一定の距離を置く「藤田行政法学」を探求。「何故か」を問うからこそ法学を含めたさまざまな知的営みを学問として括ることができるとの考えに立脚。2002年(平成14)から2010年(平成22)まで最高裁判所判事。学者出身の最高裁判所判事としては10人目となる。行政改革会議委員として活躍。皇室会議議員歴任。旭日大綬章を受章。
主な参考資料
▽『行政法入門 [第5版]』 藤田宙靖著 有斐閣 2007年(第2刷)▽『現代法律学講座6行政法Ⅰ(総論)』 藤田宙靖著 青林書院 1988年(新版第8刷)▽『行政法学の思考形式 〔増補版〕 藤田宙靖著 木鐸社 2003年▽『上智法学論集 第55巻1号 講演<裁判官と学者の間で>』 藤田宙靖著 上智大学法学会 2011年▽『東北大学法学部同窓会 会報 第39号』 東北大学法学部同窓会 2012年▽『最高裁回想録 学者判事の七年半』 藤田宙靖著 有斐閣 2012年(第2刷)