私は昭和37年(1963年)教育学部に入学しましたが、同級生は340人もいました。まだ教員養成課程があり、「総合大学の中での教員養成」という謳い文句に引かれて神戸から受験しました。
学生生活は、土樋の下宿と川内の教養部を往復することから始まりましたが、見るもの聞くもの珍しくわくわく気分の毎日でした。当時の川内は進駐軍(アメリカ軍)がキャンプを撤収した数年後で、その施設をそのまま東北大学で利用していました。教会を中心に軍本部棟や将校官舎や2階建ての兵舎が整然と配置され、道路の縁石までペンキで真っ白に塗ってあり、エキゾチックな雰囲気でした。大学祭で理学部の学生さんに竜ノ口峡谷を案内されたことをきっかけに俄然地学に目覚め、岩手県湯田ダム周辺の地質調査を卒論とし、宮城県公立高校の理科教師として勤め始めました。
平成13年と14年、東北大学から全学教育科目「教育課程論」の講義依頼が来ました。これは、小・中・高・特殊教育の現場の校長を4人1組の2チームに依頼し、主に教職科目を履修する学生に1年間講義をしてもらおうというものです。言わば丸投げですが、これが学生に評判がいいのです。どの校長も将来教師をめざす学生さんに現場の経験を披露できるのですから、準備にも力が入り、熱意を込めて話をし、学生を眠らせないのです。私も3回の講義に資料をどっさり作り、2時間前に教室に入り、授業の流れを黒板に書いて約100名の学生さんを待ち構えました。黒板を見てびっくりし、ちょっと緊張した表情の学生さん、冬のせいか少し元気がない印象をうけました。
1回目は『テロは怖いが行け行けドンドン海外へ―松島高校韓国修学旅行始末記―』。米国の9・11同時多発テロで海外や沖縄の修学旅行が多くの高校で中止になる中、2年生220名と共に、10月8日に仙台空港から出発し、ソウルの高校と学校交流をして無事帰った経験を元に、学校行事の危機管理と日本人の反応の特異性について考えてもらいました。授業の始めと終りに挙手で「あなたが引率教員としてこのテロ騒ぎの中で海外修学旅行に行きたいですか、行きたくないですか」と尋ねたところ「行きたい」が始めより3倍・63%に増えました。これは私が、危険なのは飛行機で、仙台と仁川空港のチェック体制を調べて、大丈夫だと判断したこと、韓国修学旅行の意義と相手高校への信義について熱弁をふるった結果の増加でした。感想文を読むと「よい判断だった」「それは結果論で、もし事故が起きていたらどう責任を取るのか」など賛否両論で、深く物事を考えていると思いました。
2、3回目は『学力低下問題』や『総合的学習』について取り上げましたが、学生さんにも思い当たるフシがあるようで、発言も活発で「後輩ガンバレ!」のエールを送りました。私にとっても「先輩ガンバって」という激励になりました。
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