根強い明治民法の影響力
20世紀を迎える直前、1898年に、明治民法が施行されました。20世紀は、
日本の家族が民法の家族法によって規律された、初めての世紀であったことになります。
明治民法が作り上げた「家」制度が、日本人の家族意識にもたらした影響は、絶大なものでした。
明治維新の頃には氏をもつ日本人は6%程度だったと言われていますが、
明治初年の法律で庶民にいたるまで氏を持つようになりました。
しかし、日野富子や北条政子の例でもわかるように、結婚しても氏が変わらないのが日本の伝統でしたから、
明治民法が成立するまでは、戸籍上も夫婦別姓の国でした。戦後、日本国憲法制定により「家」
制度が廃止されて半世紀たった今でも、結婚することは夫婦どちらかの「家」
に所属することだと考える人がどれほど多いかをみれば、
明治民法の影響力の大きさがわかります。この「家」制度に正面から戦いを挑んだ代表的な民法学者が、
大正11年から昭和36年まで東北大学で民法を担当された中川善之助名誉教授でした。
中川教授は日本家族法学の父といわれる民法学界の巨人で、戦後の家族法改革を立案した1人でしたが、
教授のヒューマニズムと相反する存在であった「家」制度の廃止を、
自ら起草したときの教授の胸中はいかばかりだったでしょうか。
「家」の秩序の崩壊
「家」の秩序は、戦後の改正によって民法の条文からは失われました。
しかし、本当にその秩序が崩れたのは、20世紀の間に日本の社会や家族が
大きな変貌を遂げたからでした。大家族で農業を営む家族はごく少数派となり、
サラリーマン家庭が激増しました。妻の多数派は、農家の労働者である嫁から専業主婦に変わり、
やがて主婦意識を持つ賃金労働者となりました。家族が「家」から独立しても食べていけるようになると、
「家」の拘束力は崩れていきました。
家族の秩序のイメージについては、旧来の「家」意識を持つ人から、性別役割分業を否定し、
さらに婚姻制度を否定する人まで、日本人の間に大きな開きと対立があります。
民法の夫婦別氏選択制の改正が大きな議論をよび、法制審議会の改正案が立法化されなかったのは、
そのためだったでしょう。
権利義務規定が弱い現行法
しかし、実は氏の問題は、民法の領域では周辺的な問題に過ぎません。 民法は、親子や夫婦の間に扶養の権利義務や親権の権利義務等などを負わせて、
家族の支え合いを規律しています。ところが、日本の民法は、 明治民法において「家」の自治を重視したために、これらの権利義務規定が弱体化されており、 この特徴は現行法に引き継がれています。
世界でもっとも簡単な離婚と批判される、届出だけで成立する協議離婚制度はその代表的な例で、 離婚給付金額の低さは西欧諸国の比ではありません。扶養料の支払いについては、
夫や父親の給料から直接税の取立て手続きを利用して強制するなどの特別の執行手続きが設けられるのが、 西欧諸国では一般ですが、日本ではその強制執行手続きも不備なままです。
このように本来の領域で民法の力が弱かったからこそ、氏の象徴的な機能が相対的にかえって クローズアップされたのかもしれません。氏の秩序に依存した家族秩序に固執するようでは、
婚姻が女性にとっては、夫の家族への取り込みと介護労働・家事労働などのシャドウワークの義務 づけを意味するものと受け取られてしまい、晩婚化による少子化という、日本の女性たちが家族形成
から逃避する傾向は、解決しないものと思われます。