科学の過去・現在・未来

野家啓一=文
text by Keiichi Noe

 
先頃「科学技術基本計画(案)」がまとめられ、近々政府に答申されることになりました。現代社会は科学技術なしには立ち行きませんが、同時に急激な科学技術の発達は生命倫理や環境倫理に関わる問題を引き起こしています。未来社会のあり方を考えるためにも、科学技術の成り立ちを歴史的に振り返ってみましょう。


「科学」はサイエンスではない

 「科学」という日本語は、考えてみると奇妙な言葉です。「生物学」や「社会学」ならば、読んで字のごとく、生物や社会を研究対象とする学問にほかなりません。それでは「科」を研究する学問とはいかなるものでしょうか。むろん、そんな学問は存在しません。科学の「科」は「学科」ないしは「科目」を意味します。つまり、科学とは「分科の学」または「百科の学」の略称、あるいは多くの専門学科に分かれた学問の総称として明治初期に造語された言葉です。ですから、日本語の科学は、最初から「個別諸科学」を含意していました。
 それに対して、英語の「サイエンス(science)」は知識あるいは知を意味するラテン語の「スキエンティア(scientia)」に由来する言葉であり、当初は知識や学問という一般的な意味で使われていました。そこに「実験的方法に基づく実証的知識」という特殊な意味が加わるのは16、7世紀のことです。近代科学の方法が確立されたこの時期を科学史では「科学革命」と呼んでいます。
 旧来の人文的教養に対する「新しい知」として成立した科学は、やがて18、9世紀になると個別の学問分野に専門分化し始めます。ちなみに「地質学(geology )」は18世紀末に、「生物学(biology )」は19世紀初頭に作られた言葉です。この頃になると「サイエンシーズ(sciences)」という複数形が個別諸科学の意味で使われるようになります。ですから正確に言えば、日本語の「科学」は単数形の「サイエンス」ではなく、複数形の「サイエンシーズ」の訳語と言うべきものです。

ニュートンは「科学者」ではなかった
 科学革命を推進したのは、コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンといった科学者たちでした。しかし、厳密には彼らを科学者と呼ぶことはできません。というのも、当時はまだ「科学者(scientist)」という言葉が存在しなかったからです。ニュートンの主著『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』の標題に見られるように、彼らは「自然哲学者」であり、科学者ではなく哲学者に属していました。
 英語の「サイエンティスト」という言葉は、1840年にW ・ヒューエルが『帰納的科学の哲学』という著書の中で「アーチスト」になぞらえて新たに造語したものです。それが『オックスフォード英語辞典』に採録され、英語としての市民権を得るのは1914年以後のことになります。ですから西洋に「科学者」が誕生したのは、ニュートンの没後100年以上も経ってからのことでした。
 科学者が一つの社会階層として登場した背景には、「科学の制度化」と呼ばれる出来事がありました。つまり、19世紀に入ると科学研究の専門分化と職業化、高等教育機関による科学教育、企業内研究所の設立、学会組織の整備などが押し進められ、科学が「社会システム」の不可欠の一部として機能し始めたのです。白衣を着て眼鏡をかけた科学者が研究室に閉じこもって実験に励むといった「アカデミズム科学」のイメージは、この時期に形作られたものです。


体細胞から生まれたクローン羊「ドリー」
筑紫哲也(監修)『20世紀』
(角川書店、1988 年)より


 日本はこの頃に、明治維新を経て欧米から科学知識や工業技術を急速に導入し、制度化されたばかりの「社 会システム」としての科学をまるごと移設することに成功しました。このことは、富国強兵・殖産興業を旗印にした日本の近代化にとってはきわめて有利に働きました。しかしその反面、科学の世界観的意味、すなわち「自然哲学」としての側面は忘れ去られることになりました。そのことは、日本では西洋のような科学と宗教の厳しい対立が見られないことにも現れています。その結果、日本では科学における純粋な理論的探究の側面よりは技術的応用の側面に目が向けられることになり、外国から基礎科学の分野での「日本ただ乗り論」が指摘される一因ともなっています。

「科学技術」は西洋にはない言葉
 20世紀は「科学技術の時代」であったと言われます。しかし、この「科学技術」という言葉は、日本語では辞書などでも一語として扱われていますが、ヨーロッパ語にはそれに対応する言葉はありません。英語では「サイエンス・エンド・テクノロジー(science and technology )」と3語で表現されています。西洋では古くから理論的な「科学」と実践的な「技術」は対立的に扱われており、そのため工学教育を行う高等教育機関は、フランスのエコール・ポリテクニックやドイツのT H(高等工業学校)のように、長いこと大学の外に置かれてきました。
 それに対して、明治期の日本人は科学と技術をことさら区別せず、両者を一体のものとして受け入れました。そのことは「科学技術」という言葉が違和感なく使われていることや、また世界で最初に工学部を設置した総合大学が東京大学であったこと(1886年)にも現れています。ところが、20世紀に入ると科学研究と技術開発とが融合し、まさに日本語の「科学技術」という言葉がぴったりするような状況が出現します。これを「アカデミズム科学」から「産業化科学」への転換と言います。従来のアカデミズム科学においては、科学者個人が自分の好奇心に基づいて研究を進めていましたが、現代の産業化科学においては、科学者集団が国家や企業から資金提供を受け、一定の目標をもったプロジェクトを請け負うという形で研究が進められています。
 プロジェクト達成型の科学研究においては、巨額の研究費を税金や民間資金によってまかなう以上、研究目的が社会的に承認されるものでなくてはならず、研究結果については情報開示と社会的説明責任(アカウンタビリティ)が求められます。つまり、現代の科学研究は「象牙の塔」に閉じこもることは許されず、否応なく公共的な「社会的実践」という性格を強めています。

「科学技術倫理」の必要性
 現代の科学技術は社会的な合意形成をはるかに上回るスピードで発達しており、環境破壊や資源枯渇など の社会問題のみならず、クローン技術に見られるような倫理問題をも引き起こしています。21世紀を人類が生き延びうるかどうかは、社会が科学技術をどうコントロールできるかにかかっていると言えます。そのためには、科学技術の研究開発を専門家だけに任せることなく、その必要性と社会的影響について市民が非専門家の立場から積極的に発言することが重要です。その意味で、現代では何よりも科学技術という怪物と人間とが「共生」するルール作り、すなわち「科学技術倫理」の確立こそが求められているのです





のえ けいいち
1949年生まれ
現職:東北大学大学院文学研究科教授
専門:科学哲学