晩翠土井林吉は明治4年(1871)、仙台の北鍛冶町に生まれました。明治27年(1894)に第二高等中学校を卒業して東京帝国大学文科大学英文学科に入学。大学卒業後の明治32年(1899)4月に出版した詩集『天地有情』によって晩翠は、『若菜集』(明治30)の詩人島崎藤村と併称され、詩壇における藤晩時代の到来が告げられる程の高い評価を受けることになります。明治33年(1900)1月、母校である第二高等学校教授に任官して仙台に戻り、翌年に第2詩集『暁鐘』を上梓します。晩翠作詞、滝廉太郎の作曲になる「荒城の月」を収めた『中学唱歌』が刊行されるのも同時期のことです。明治34年(1901)6月から3年半に及ぶ欧州遊学の後、明治38年(1905)4月に第二高等学校に復職、昭和9年(1934)に退官するまで母校の教授を務め、東北帝国大学には講師として出講しました。
その後の業績としては、『東海遊子吟』(明治39)以下の数々の詩集を出版、また語学に極めて堪能で、英語のみならず諸外国語に精通していた晩翠は、ギリシア語原典からのホメロス翻訳に取り組み、『イーリアス』(昭和15)、『オヂュッセーア』(昭和18)を刊行しました。それらの業績により、昭和22年(1947)に芸術院会員に推され、昭和25年(1950)には文化勲章を受章しています。晩翠は、専門として学んだのは英文学ですが、卓抜な語学力を背景に古今東西にわたる広範な学識を備えた典型的な学匠詩人でありました。
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