研究室からの手紙

蘇 歩青 教授について

剱持 勝衛=文
text by Katsuei Kenmotsu

蘇歩青教授(写真提供者:御田村卓司氏(東北大学理学部数学科 昭和36.3卒))

「まなびの杜」第6号の魯迅特集に、本学の阿部博之総長による「江沢民主席と東北大学」と題する記事があります。
阿部総長は中華人民共和国の江沢民国家主席が昨年秋に東北大学で魯迅ゆかりの品々を見学されたとき、同時に展示してあった蘇歩青教授の書に目を留められ、教授の近況について総長にお話されたことを報告しておられます。
 蘇先生のご子息である蘇徳昌奈良大学教授によれば、江沢民氏が主席になる前、上海市長、共産党市委員会書記(委員長を書記というそうです)であったとき、蘇先生は上海市議会副議長、市科学技術協会会長であったので、江沢民氏と随分と交際があったそうです。
 蘇先生は東北大学出身の数学者で、中国における現代数学創設者の一人といわれています。中国で理工系の研究者、教員、学生で蘇先生の名前を知らない人はいないとのことです。上海市にある復旦大学長を務めながら、中国全国政治協商会議副主席として活躍された中国政府要人の一人です。現在は高齢のため中国科学界、政界の表舞台から引退してますが、復旦大学名誉学長、中国科学院会員、中国数学会名誉理事長であり、平成5年には日本政府から勲二等瑞宝章を授与されております。



 最近、蘇先生より近況を知らせるお手紙をいただいたので、蘇先生と東北大学、私達の研究室とのつながり、蘇先生の足跡を含めこの手紙を紹介したいと思います。
 蘇先生は1902年9月中国浙江省に生まれ、1924年(大正13年)東北帝国大学理学部数学科に入学しておられます。仙台での止宿先は土樋で、茅誠司氏(後の東京大学総長)と同じ家だったとのことです。1927年(昭和2年)卒業後すぐに東北帝大附属臨時教員養成所の講師になりました。外国人留学生が帝大の先生になるということで、当時でも大変珍しく新聞に報道されたほどです。1929年(昭和4年)には仙台出身の松本米子さんと結婚しました。新婚時代の住まいは仙台市内荒町にある大安寺に向かって右側に現存しており、3月に私が妻と訪ねたときは梅が咲いておりました。蘇先生、米子夫人もきっとあの梅を愛でられたことでしょう。
 蘇先生は1931年(昭和6年)日本に留学した外国人として2番目に理学博士の学位取得後、夫人とともに帰国し杭州の浙江大学の教授に迎えられました。佐々木重夫東北大学名誉教授著の「東北大学数学教室の歴史」によると、1937年、日本軍による中国侵略を機に浙江大学は戦火を逃れて西へ向かい2,500kmを踏破し、戦後の1946年にやっと杭州に戻ったとのことです。このような困難な状況にもかかわらず、蘇先生の数学の研究と教育に対するご活躍はめざましく、国内外から蘇学派と呼ばれるほどの多数の数学研究者を育てられました。
 それでは、蘇先生からのお手紙の一部を紹介します。
「剱持勝衛先生 拝啓…,1995年3月から脊椎動脈の血流がよくないため、上海華東病院に4年間入院しております…お陰様で安らかに老後の日々を送っております。江沢民主席、また上海市と復旦大学のみなさんにも、私の身体のことを心配していただきました…今年九十八歳になり、もう教壇に立つこともありませんが、先生と皆さんのことをつねに思い出しております。去年いただいた科学成就賞の香港ドル100万元は全部わが国の教育事業に寄付し、優秀な先生と学生の奨励金として、使っていただいております。教育事業に力を入れ、優秀な人材を養成することこそが国を豊かにすると、私は確信しております。この考えを養っていただいた母校の恩に心から感謝しております…1999年1月30日」(本学大学院生・趙宏宇さん訳)
 1991年9月上海で国内外からの多くの参加者を集め、蘇先生の90歳記念微分幾何学国際シンポジウムが開かれました。その時の祝賀会で、中国政府首脳、上海市幹部、各大学学長などの祝辞とともに外国人出席者を代表して私が祝辞を述べる栄誉を得ました。これは蘇先生が仙台時代のことを非常に大事に思われていることの証であります。
 蘇先生の孫弟子にあたる若い数学者夏昌玉君が1993年6月から1年間、続いて周徳堂君が1996年に2ヶ月間日本学術振興会の招きで私の研究室を訪れ、部分多様体に関する共同研究を行いました。蘇先生は東北帝国大学で窪田忠彦先生に師事しました。私は窪田先生の孫弟子にあたります。昭和の初め仙台で結ばれた師弟関係はさらに発展し、日中両国の学問の交流が続いています。



けんもつ かつえい 
1942年生まれ
東北大学大学院理学研究科教授
専門:微分幾何学