シンクタンクから見た
東北大学のユニークな人材

 一九六二(昭和三十七)年四月、三食賄い付き、四畳半の下宿で学生生活を始めてからほぼ半世紀、海外留学の一年間を除き、人生のほとんどを東北大学で過ごしました。仙台の第一印象は坂の多い、今も変わらない緑の多い町であることでした。
 米軍キャンプ地の面影を残す教養部の木造校舎やチャペルを改造した大講義室で始まった学生生活は、とても充実しておりました。大学の講義は、高等学校までの授業とは根本的に異なり、自らの判断で講義科目を選択し、まだ少し旧制高校の雰囲気を漂わす教授の授業に新鮮さを感じました。授業の中では、専門となる薬学からは縁遠い法学、倫理学、経済学、社会学のような講義に新鮮さを感じつつ、一方で専門に近い生物学の講義で初めて核酸の立体構造を知ったり、量子化学のある意味理解できない不思議さを感じたりして、毎日を過ごしました。特段に真面目な学生でもありませんでしたし、このような教養科目の内容をよく理解したわけでもなかったのですが、いろんなことに興味を感じる契機になりました。東北大学での教育研究生活の最後に教務担当副学長として教養教育に相当する全学教育の運営を担当することになったことには、ある種の因縁を感じました。
 秋田の小さな町から、汽車、ディーゼル車、電車を三回乗り継いで半日以上の時間をかけ仙台に出てきたので、知り合いが全くいないため、下宿と大学は友人を作る場でもありました。クラスメートの他に学部を越えた友人たちと川内キャンパスの芝生に座って議論したり、マージャン、パチンコ、ダンス、酒に多くの時間を割きました。学部学生時代の友人が最も長く続く交遊を保っています。若い頃に知り合った親しい友人は一生の宝といえます。
 学部・大学院の時代は、学生運動の盛んな時代でもありました。六十年安保闘争の後に入学しましたので、最初は青葉山移転反対運動で、最後は教養部封鎖と解除でした。この間、さまざまな場で繰り広げられた同輩、先輩、後輩そして先生方との熱い議論は、その後の長い交遊に繋がりました。
 国立大学は法人になりましたが、教育研究の場であることには変わりがありません。助手時代に体験した宮城県沖地震をはるかに凌ぐ東日本大震災を乗り越え、以前にもまして活発に教育研究が行われ、東北大学がさらなる発展を遂げることを期待します。

坂本 尚夫(さかもと たかお) 坂本 尚夫(さかもと たかお)
1943年生まれ
出身学部/東北大学医学部薬学科
現職/東北大学名誉教授
   株式会社インテリジェント・コスモス研究機構
   代表取締役社長


INFORMATION


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