シリーズ 東北大学ゆかりの文学者たち 2
小宮豊隆―
夏目漱石の弟子
仁平 道明=文
text by Michiaki Nihei
 
 
夏目漱石と弟子¥ャ宮豊隆

 東北大学附属図書館には、夏目漱石の旧蔵書と関係資料からなる「漱石文庫」があります。その旧蔵書・資料が昭和19年に仙台に移った後、早稲田南町の漱石旧居は昭和20年の東京空襲で焼失してしまったのですが、その後に入った資料も加えて3000冊をこえる漱石旧蔵書を中心とする貴重な資料群が今に残ることになったのは、当時附属図書館長を務めていた、夏目漱石の弟子¥ャ宮豊隆の尽力によるものです。
 小宮豊隆は、明治17年(1884)福岡県京都郡に生まれ、福岡農学校の教師だった父が転任したため幼時を奈良で過ごした後、福岡にもどって豊津中学校を卒業し、明治35年に第一高等学校に入学(校長は、東北大学附属図書館にその旧蔵書・資料が「狩野文庫」として残る、漱石の友人狩野亨吉。明治36年からはイギリス留学からもどって第一高等学校講師・東京帝国大学講師となった漱石が英語を教えていました。)、明治38年に東京帝国大学文科大学独文科に入学して、漱石に在学中の保証人になってもらい、以後漱石のもとに出入りするようになり、それは明治40年に漱石が東京朝日新聞社に入社して専業作家となり大正5年に亡くなるまで続きました。「漱石文庫」に残る漱石の本の貸出帖には、森田草平らとともに、「小宮豊隆」の名前が書かれています。小宮の教養、思想の形成には直接、間接に漱石の影響があったと言ってよいでしょう。なお、大正5年に小宮に男子が生まれたときには名前を付けてくれるように漱石に依頼し、漱石は2度にわたって手紙で案を書き送っています。そんなところにも漱石との親密な関係がうかがえようかと思います。
 小宮は、漱石が大正3年9月5日付の田村俊子宛書簡で「あれは大暑でも何でも毎日芝居ばかりへ行つて」と書いているほどの芝居好きで、漱石が担当していた朝日新聞の文芸欄などに演劇評・演劇論を発表しています。また創作にも意欲を見せ、『新小説』の大正3年1月号の目次には、小山内薫・岡本綺堂・田村俊子・泉鏡花などと並んで小宮豊隆の名が見え、「劇壇回顧」という劇評のほかに、「木枯が吹く」という小説が載っていますが、正直なところ傑作≠ニは言い難いものです。漱石が小宮に批評家になるよう勧めたのも、その資質が何に向いているのかをよく見ていたからかもしれません。

 
その後の小宮豊隆
その後小宮は、慶應義塾大学講師、法政大学教授などを経て、大正13年にヨーロッパ留学から帰国して東北帝国大学法文学部のドイツ文学の初代教授となり、昭和15年から21年まで附属図書館長を務め、昭和21年に東京音楽学校校長を兼務し、同年3月に東北大学を辞し、その後学習院大学文学部長を務め、学士院会員となり、昭和41年(1966)に没しました。
 学者としての小宮は、ゲーテ、シュニッツラー、ストリンドベリなどの翻訳や演劇研究・評論に業績を残し、著書に「ストリンドベリ」「希臘喜劇の起源に就いて」「喜劇と喜劇的精神」ほかの論を収めた『悲劇と喜劇』(昭和22年)があります。小宮の業績は、そのほかに『芭蕉の研究』(昭和8年)『能と歌舞伎』(昭和10年)『伝統芸術研究』(昭和12年)などの芭蕉・演劇に関する著書などもありますが、忘れてはならないのは、『夏目漱石』(昭和13年)・『漱石の芸術』(昭和17年)・『漱石・寅彦・三重吉』(同)などの漱石に関する著作や、大正6年に第一次の全集が刊行され、その後多くの版が出た漱石全集の編集・注解・解説などの漱石に関する多くの仕事でしょう。小宮は、師漱石の仕事を広めることに多大の貢献をしました。小宮豊隆の名が後世に残るとしたら、それはまず夏目漱石の弟子≠ニしてだろうと思います。
 ちなみに、私の恩師北住敏夫(国文学者・故人)は小宮豊隆のところに出入りしていましたので、私は夏目漱石の弟子3代目ということになります。
 



橋爪 秀利

にへい みちあき

1946年生まれ
東北大学大学院文学研究科教授
専門:国文学


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