1960年代末から1970年代にかけて、学問の「総合化」という言葉が研究・教育上でキーワードのように頻繁に使用されました。この言葉は、大学紛争が各地に起こり、公害列島の危機が叫ばれ、薬害や欠陥商品が噴出した時代に、専門分化・細分化をしていく学問へのあり方を問う意味をもっていました。
学問が専門分化し過ぎて、「没社会的」でタコツボのようになり、結果として問題が噴出したことから、異分野間の相互連携が提起され、「総合的」視野の確立が求められたのです。
しかし、学問の専門分化の進展にはそれなりの必然性もあり、これによって「細分化」がセーブされたわけではなく、また「あり方」に応えて学問領域の再編成が進展したわけでもありませんでした。
1980年代に入ると新たに「学際化」という言葉がキーワードとして登場してきました。これは、学問の専門分化・細分化の進展がもたらす思わぬ閉塞状況からの脱出を意味しておりました。したがって、異なる分野の交流によって発想の転換、支配的パラダイムからの脱出が期待され、実際、分野によっては大きな成果がもたらされたこともあり、学際(境界)領域への関心が強まりました。こうして70年代初頭に社会的問題として提起された「総合化」の課題の一部は果たされたかにみえました。
ところが、1990年代に入ると「学際化」に加えて学問の「複合化」、「融合化」、「統合化」などという言葉が登場してきました。もっとも、この種のキーワードに学問論としての明確な定義があるわけではありません。しかし、このキーワードの多様化は、70年代の「総合化」の課題の一部を継承しており、研究の最前線で、分野によっては大きな変動が始まってもいます。これらのキーワードはむしろ論争的な問題提起を表示しているといえます。
とはいえ、この多様化には、キーワードの弊害とも言える多用による陳腐化、独自性・独創性の希薄化を避けるための傾向がないわけではありません。また、こうした傾向は研究資金の獲得競争や納税者に対する研究の社会的説明責任とも無縁ではなく、成果や効率、社会的貢献の上からも独自性を主張しなければならない戦略的意味が含まれていると言えます。
もっとも、学術研究の多くは失敗もあれば成功もあり、その時代には「役に立たない」ものでも、後世に役立つものもあるのが通例です。いや、むしろ失敗や不用の中からこそ多くのものを学んできたというのが学問ですから、成果や効率だけを求める風潮は学問の基盤を枯渇させる危険性を伴います。したがって、そうした対応に汲々としてキーワードを乱用するならば、論争への問題提起も意味を失うことになってしまいます。
70年代の「社会の諸悪に立ち向かう学問」への要請が様変わりしたわけではなく、むしろ地球的規模での問題群(地球環境破壊、資源・エネルギー問題、新病の発生、貧困と飢餓、地域紛争)は増大しており、成果や効率をあげにくい分野で、総合的視野からの研究活動が求められると言えます。
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